フィッツジェラルドグレート・ギャツビー村上春樹訳(中央公論新社)2006

村上春樹の新訳「グレート・ギャツビー」を読み終えた。
その本を手に取るまでの私の心境は複雑、ではなかったけど、「グレート・ギャツビー」との(春樹訳との、ではない)距離をつめることができずにいた。
小説なんてものとほとんど縁のなかった俺が「グレート・ギャツビー」の名前を耳にしたのは、やはりツボウチさんの授業が最初だったように思う。だけど、一体どういう話で「グレート・ギャツビー」の名前が出てきたのか、さっぱり思い出せない(「編集・ジャーナリズム論」の授業であり、文学の授業ではない)。
はっきりと記憶にあるのは、いまは亡き「金城庵」(その「変貌」の真相めいた話をちらっと耳にしたいまでは、「いまは亡き」などと書くのは、少し心苦しい)で飲んでいるときに、Y田さん(大人のほうのY田さん―つまり、旅人ではないほうのY田さん)にむかってツボウチさんが30歳と「グレート・ギャツビー」について話していた記憶があるのだけど、端のほうに座っていた俺にはよく聞き取れなかった。
その後も、ツボウチさんの口からその小説の名前を聞くことは何度かあった。つまり、いま出ている「en-taxi」を読む前から、その作品への思い入れ(?)を、なんとなく感じ取ってはいた。
そういう作品のひとつに、「ライ麦畑でつかまえて」がある。こちらは(野崎孝訳で)購入していた。ただ、その購入は、ツボウチさんが「イキ麦畑でつかまえて」―イキさんのキャッチャーになりたい、とおっしゃっていたときに、ホールデン少年がその夢を語る部分との対応を探るためだけのもので、その箇所を探し当てるだけ探し当てて、通読しなかった。結局、自分とその作品との距離をつめることができずにいたのだ。
距離をつめることができずにいた作品を、わざわざ元日に購入して読んだのは、結局ツボウチさんの現行の影響であるが、なかでも興味を惹いたのは、次のような文だ。

当時私は、英米文学科の大学院修士課程の三年目で、しかし博士課程にすすむつもりはなく、かといって今さら就職のあてもない、いわばニートの予備軍だった。
時代はバブルに向おうとしていた。
私はそういう時代、単なる享楽だけの時代がイヤでイヤでたまらなかった。いわば私は地下にもぐろうとしていた。
だからこそ私は、村上春樹の新訳「グレート・ギャツビー」を読みたいと思っていた。

もちろん、自分をツボウチさんに重ね合わせるだなんていう、おそれ多いことをしたいわけではない。学年も違えば、すすむつもりの点も異なるし(まあ、あくまで「つもり」だが)、村上春樹へのそうした複雑な思いも持ち合わせていない。しかし、いま現在の俺は「ニートの予備軍」としか言いようがないし(なんて書いている俺は、いったいどこまで自分を客観視できているのだろう―つまり、どこまでそのことばに現実味を持っているのだろう)、『地下にもぐりたい』という気持ちはある。その気持ちは、ツボウチさんのそれほど純粋ではないかもしれないが。
ただ、いま帰省している俺は、ロンブンに集中するぞ、と思っていたはずなのに、どうしていま専門外の本を買う必要があったのだろう。結局俺は、帰省したものの、正月ということで浮かれてしまい、いきなり専門書に取りかかることができなかったのだ。
と、ここまで「手に取った動機」を書いておけば十分な気もするが、せっかくなので感想も書いておく。少し内容にも触れるが、まあ、俺以外の人はみんな読んでいる作品だろうから、気にせず内容にも触れるのであしからず。
ただ、感想を書くとはいっても、読み終わってまだ1時間経ってこれを書いているが、いまだに整理がついていない。だから、どう整理がついていないのか書こう。
一つには、この小説の結末は、読む前に予想していたところとはずいぶん違うところにたどり着いてしまったことがある。読む前に持っていたイメージというのは、「en-taxi」でツボウチさんが書いていたようなギャツビーの「含羞」のイメージがほとんどであり、それがハッピーエンドにせよそうでないにせよ、「恋愛小説」だとしか考えていなかった。もちろん、恋愛小説ではあったけど、それ以上に、なんだか揺さぶられてしまった(もちろん、「en-taxi」では「二重性」に重点が置かれていたのだけど、それよりも「ギャツビーの含羞」の印象のほうが強かったのだ)。
それから、ツボウチさんは(「享楽と敬虔の二重性について語っていた村上春樹の『ギャツビー』」であるからこそ、「その二重性を真に理解するには、バブルの時代こそ、あるいはバブルの影がかろうじて見える(感受出来る)時代にこそ読まれるべきだろう」と書いていた。しかし、僕(なんで急に一人称が変わってるんだ、俺)にはその「二重性」があまり感じられなかった。もちろん、享楽と、それを客観視している敬虔というような「ダブル・ヴィジョン」は感じられた。しかし、それが「二重性」と呼ぶにふさわしいものであるためには、その「享楽」自体は輝きを持っていなければならない。「消費生活を謳歌」してくれなければならない。だけど、その「享楽」は、「消費生活」は、僕には輝きのあるものには見えなかった。
ツボウチさんの話ばかりで色々申し訳ないが、「アイルランド系といえば、アイリッシュの希望の色「緑」が「グレート・ギャツビー」の中でいかに上手に配置されているか見逃さないでほしい」と書いていて、色にも注目していたのだけど、この作品を通して、なんだか灰色に感じられたのだ、僕には。もちろん、実際に灰色は出てくる(町も灰色だし、ナントカってゴルフ選手の瞳も灰色だし、それから他にもあったけど、緑しかチェックを入れていないから確認できない)。つまり、パーティを行っているギャツビーもその参加者も、消費生活を謳歌しているようにはみえず、どこか空虚さが漂っていたのだ。
「訳者あとがき」を読むと、「『グレート・ギャツビー』はすべての情景が繊細に鮮やかに描写され」ていると書かれているので、そう感じたのは僕が小説を読みなれていないせいかもしれない。しかし一方で、この翻訳の基本方針は「これを『現代の物語』にすることだった」と書かれている。

今なぜ「ギャツビー」をという私に対して、今こそ「ギャツビー」と村上春樹は言う。

僕は原文を読んでいないし、他の訳も読んでいないから、僕の感想が春樹訳によるものなのか、それとも僕がそう感じただけなのか、分からない(ツボウチさんは春樹訳を「素晴らしい翻訳だった」と書いていたが、この「今なぜ」「今こそ」問題に関しては、実際に読んでみて、どう感じたのだろう)。しかし、バブルに対して実感がなく、テレビを通してバカ騒ぎだけを目にしていた俺にとって、その灰色はまさに「今こそ」のものであった。
だだ、そうなると、「二重性」すら成り立たない。享楽が輝いているからこそ、その消費生活と敬虔さや宗教的道徳性との相克が成り立つのだし、「ダブル・ヴィジョン」足りうるのだが、そもそも何が実体として在ったのか、読み終えたいま、分からないのだ。そこに横たわっているギャツビーを、一体どの角度から見ていいのか分からず、(中心にギャツビーが横たわっている)部屋のなかを落ち着きなく動き回っているような心境である。
と、ここまで書いたところでようやく、「en-taxi」22頁の★印までの部分が、ようやく読めるようになってきた気がするけど、それは俺の勘違いかもしれない。
本当は、この感想を書く前に、昨年買った本である「en-taxi」について、なぜトンカツ先生にカチンときたのかについて書こうと思っていたのだけど、この気分を忘れないうちにと思って、こちらを先に書いた。