『『婦人公論』にみる昭和文芸史』(中公新書ラクレ)2007

芳林堂書店高田馬場店にて購入

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』(講談社現代新書)2007

芳林堂書店高田馬場店にて購入
ラノベを読んだこともないし、オタクへの関心もない。東浩紀の書いた本をちゃんと読んだこともないし、むずかしいことを考えられる人間でもない。でも、案外すらすら読めた。まぁ、新書だから当たり前か。
ただ、読んでいるうちに『んん??』と引っかかるところがあった。

  • 自然主義」「自然主義的」という語の使用法
  • 自然主義」と「私小説」はそんなにぴったり一致するのか?
  • 「現実」「写生」という語の幅があまりにも広くないか?

自然主義文学の作家は、現実を描くべきと感じたからではなく、現実を描くとコミュニケーションの効率がよいので、現実を写生していた」(p.62)という叙述や、言文一致をダイレクトに自然主義と結びつけている箇所(p.83-)を読んでいると、はてなが頭の上に浮かんでくるけど、文学史を勉強したことのない俺には何とも言えない。まぁ、上の二つについては、そこに問題があるとすれば、東浩紀が参照している柄谷や大塚の著作に責任があるのだろう。
そして、最後の「現実」ということばの幅については、そのことがまさに「ポストモダン」あるいは「ポストモダンにおける物語の可能性」を示しているのだろうから、批判すべきポイントではないだろう。そう考えると、上の二つについても、ポストモダンにおける物語の可能性を説く本書に対する本質的な批判にはならないかもしれない。
最初に書いたように、オタク文化にもラノベにも興味はないのだけど、そんな俺が読んでも、色々と考えさせられるポイントがあって面白い。それはポストモダンという現代について考えることであったり、現実ということについて考えることであったり、物語について考えることであったりする。
そういう、出口が色々あるという意味でも良書だと思う。