宇田川悟『VANストーリーズ―石津謙介とアイビーの時代』(集英社新書

あおい書店大塚店にて購入
(※太字は小見出しのタイトル)

  • 若き日の石津少年

それでも瞠目するのは、仲間をまとめる能力に秀でていた点である。……野球部員や遊び仲間を連れて食べに行くときはいつもオゴリ役だった。こうした資質は石津謙介を語るうえで欠かせない要素である。
「よく仲間を連れてきては、家の奥の祖父の隠居所でおしゃべりしてましたね。二階の大きな座敷でしたけど。何か用があると、奉公人や女中さんじゃなくて私が呼ばれるの。……そのたびに兄はカルメンの有名な序曲を大声で口ずさむの。ラーラーラーラーなんて歌って私を呼ぶわけ。……一度なんか階段の上から転げ落ちちゃった。でも、私もお調子に乗って使われてたのよね。まったく兄はいい気なもんですよ」
と寿美子は話す。(p.32)

  • モボたる石津少年と世間の目

だが、「モボモガ」に対して世間の目は厳しかった。彼らのやっていることは所詮、アメリカの流行に追随している、中流以上のお金持ちのお坊ちゃんやお嬢ちゃんのお遊びにすぎないと冷めた目で見ていたからだ。そして、当時の大衆雑誌をめくると、モガに対しては、それなりに封建社会と男性支配に対して抵抗しているというプラスの評価も散見されるが、モガに追従するモボなんて何の意味もないゼロかマイナスカ売笑男。(p.49)

  • チャブ屋通い

……そこで商売上手な浜っ子が、横浜・本牧にその欲望を満たせてあげようとチャブ屋という名の「赤線」を営業した。いわば横浜独自の外人ハイカラ娼館で、明治一〇年代から流行っていた。……
チャブ屋と遊郭の違いは、遊郭が娼婦館とすれば、チャブ屋はその娼婦館に、今風にいえばバーやキャバレー、スナックやカフェやダンスホールなどをミックスしたようなもの。いわば遊びの要素がふんだんに盛りこまれていたから……人生のリベラルな感覚的快楽をつかの間でも求めようとした男どもが集まってきたのである。……
新し物好きの石津謙介も、遊興の巷、本牧チャブ屋によく通った口だ。ときには悪知恵を働かせ、東京に逗留していた恋人の昌子を煙に巻いて行ったこともあるらしい。(p.53-55

  • 新青年」との出会い(p.55-)
  • 石津の原点? 中村進治郎という男(p.58-)
  • アメリカ村の原点

現在、石津謙介が興した石津商店のあった旧北炭屋町一帯は大阪ミナミに位置し、詳しくいうと西心斎橋一、二丁目。その一帯が今はアメリカ村と呼ばれ、大規模なマーケットに変貌している。……アメリカ村と呼称を変えたのは、一九七〇年(昭和四五年)の大阪万博以降のこと。もちろんアメリカ村のネーミングにはm、少なからずVANの発祥地であることがからんでいる。(p.105)

 当時の「習慣サンケイ」(一九五九年一〇月一一号)を見ると、「怪物VANという阪僑」という記事が掲載されている。ヴァンヂャケットの急成長をさまざまな角度から解説した記事だが……もともと「阪僑」という言葉を使いだしたのは評論家の大宅壮一で……
「大阪人には、商業的な利益中心の史観があるが、それが古い中国人の史観に非常に似ている。それで僕は、妙な言葉だけれども“阪僑”という言葉を考えている」(「中央公論」一九五七年九月号)(p.114)

 今でも我々のあいだで使われている石津の不朽の名作TPO[T(time)=時、P(place)=場所、O(occasion)=場合]は、アメリカでは通じない和製英語である。その他トレーナー、ニューポート・ブレザー、スイングトップ、スペクテイター・コート、チルデン・スウェーターなどネーミングした言葉は三〇〇を下らない。実際は、社内の部下たちがその大半を和気藹々を作っていたのだろうが、ネーミングは得意だったらしく、優れた宣伝能力を発揮した名コピーライターである。(p.116)

  • 役者たちが広告塔に(p.122-)
  • 「男の服飾」に集まる才能たち(p.128-)
  • アイビー・リーグの由来(p.130-)
  • ボタン・ダウン秘話(p.131-)
  • ブルック・ブラザーズ(p.133-)
  • 雑誌「メンズクラブ」とVAN(p.134-)
  • 海外視察(p.138-)
  • ターゲットを若者に(p.140-)
  • アメリカ文化はキライ!?(p.150-)

こうした流れから出てきたファッションは、若き日に、英国流スタイルから出発した石津謙介の洋服哲学と彼の気質を考えれば嘲笑の対象だったろう。……本物は永遠のスタイルを頑なに継承するヨーロッパにこそある、という意識のもち主にとって、アメリカン・ファッションなど噴飯物に見えたに違いない。

  • 人気の少ない青山に移転(p.152-)

去年坪内さんの授業か東京堂での三回連続講演だかで、「昔の青山は今みたいにお洒落な街では全然なかった」というような話を聞いた気がする(違ってたらすみません)のだけど、一体なぜ、お洒落じゃなかった青山がお洒落になったんだろう、と不思議に思っていた。

当時、おどかな青山通りにあるファッション・ブティックはVANとコレットだけだったが、両店にはオシャレにうるさい芸能人らが日参した。メンズはVAN、ウーマンはコシノという棲み分けができていて、……こうして石津謙介コシノジュンコは、新生都市・青山から斬新なファッションを発信していくのだ。(p.158)

  • VAN伝説の虚実(p.164)

 巷間、私たちアイビー世代がVANの社風やその自由奔放さについてよく聞くセリフがある。もしそれらが本当の話なら、何とも羨ましい会社となるのだが。曰く、「タイムレコーダーがなくてフレックスタイムだった」「好きなときにジャズを聴きながら仕事していた」「遊びながら仕事していた」「社内クラブ活動が盛んだった」「自由な雰囲気にあふれていた」「アメリカに行ってホーバークラフトを購入してきた」「渡米して数年後帰国した」「来る者拒まず入社させていた」「全員高給取りだった」…………。
これらの逸話は真実なのか嘘なのかよく分からない、というのが答である。いやむしろ、そんな伝聞が残っているくらいだから、ある部分は真実で、ある部分は嘘だろう。(p.164)

  • 倒産直後の逸話

記者会見の夜、成城の自宅に帰った石津謙介を追いかけるように、成城署からふたりの警官がやってきた。何事かと思えば、彼が自殺することを警戒したのだった。だが石津謙介はといえば、もはや失うものは何もない、という清澄な心境だった。……その夜、彼はふたりの警官と雑談しながら痛飲した。何だか気持ちが洗われるような気がしたのだった。(p.198)

すごく石津謙介という人の人柄があらわれている。警官と飲むかね。

奥さんとの仲が、いまいちよく分からない。
p.106辺りでは、有名だった夕方の「夫婦デート」のエピソードが紹介されているほどの仲だったのに、p.213では、

……「夫婦として一緒にいた時間なんて短かったでしょう。会社が終わって帰宅して、ふたりで向き合ってお茶を飲んだり、食事したりするのが普通の夫婦としたら、たぶん三分の一くらいでしょう。……」と長男・祥介はいう。

という記述もある。
最後のほうで、「私たちは石津謙介という有能なストーリー・テラーの卓抜な口上に乗せられ、愉しく贅沢な夢を見せてもらったのかもしれない」(p.217)と書かれていたが、この本を読んで、その稀有というか破天荒なパーソナリティと波乱万丈としか言い様がない人生に触れた私にとっては、「有能なストーリー・テラー」というよりも、「マンガのキャラクター」という感じだ。
越智智雄『ワスプ』(中公新書)を読もう。それから、『ポパイの時代』も。読了したいま、そんな気分。

鈴木ひとみ『紐育 ニューヨーク!―歴史と今を歩く』(集英社新書

あおい書店大塚店にて購入

太田愛人『『武士道』を読む 新渡戸稲造と「敗者」の精神史』(平凡社新書

あおい書店大塚店にて購入