『週刊文春』9月14日号

この一ヶ月ばたばたしていて立ち読みすらしないでいたら、いつのまにか新連載がいくつも始まっている。特に今週始まった新連載にケチをつけたくなるけど、それは元々その人にケチをつけたい気持ちがあるからケチをつけているだけかもしれないのでやめにする。
で、青木るえかだ。24時間テレビについて書いている。24時間テレビに批判的な人は多いけど、実際に集まっている人たちはべつに「過剰な気持ちを抱いている」わけではなく、なんとなくそこに集まっている人たちでしかなくって、だから会場に集まっている人たちを見て「大衆とは」とか言うのは間違っている、と言いたいのだろうけど(つまり24時間テレビに批判的な人たちが想定している「熱心な視聴者」なんていないんだ、と言いたいんだろうけど)、その「まあ一応騒ぎます」精神こそが大衆的と批判される所以だろうし、そういう人たちは本質的には24時間テレビとは何の関係もない。そして、何の関係もないのに一応騒いでいることが、俺には許せない。
ただ、俺は「24時間テレビ」自体を憎んでいるのではないし、さほど興味がないからどうでもいい。ただ、24時間テレビは「まあ一応騒ぎます」精神で都市部の会場に集まっている人たちに支えられていたのではなく、中継も入らないくらいローカルな地域で、スーパーにある募金箱に募金している人たちに支えられていたのだと思う。そういう人たちは「まあ一応騒ぎます」精神から募金しているのではなく、その募金によって東京から発信されている何かに自分もコミットしたんだという精神から募金しているのだろう(もちろん純粋にチャリティー精神から募金している人もいるだろうけど、そういう人たちは「24時間テレビ」的ではないから除外する)。そして、「24時間テレビ」を見なくっても日本全国とつながることが簡単になったからこそ、「24時間テレビ」は「まあ一応騒ぎます」という人たちだけが残ったんだろうと思う。