『文藝春秋』2006年6月号

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  • 文春的安倍キャンペーン
  • 芥川賞選評

中原昌也に触れているのは池澤夏樹のみ(それも「他ジャンルからの乱入」という題の悪しき例として触れられているだけ)。

多くの働く人々が見るもの、感じるもの、味わうもの……。それらを超えた何かが小説の芯として確かに沈んでいなければ、その小説になにほどの意味があるのか……。(宮本輝「小説の小ささ、大きさ。」)

それぞれの作品の主題となっている家庭内暴力とか離婚という別離、あるいは虚無感に繋がる鬱症状とかは時代粧に関わり無い人間社会には普遍的な主題だが、それにしてもその扱いが粗暴というかいかにもありきたりで、現代というかなり歪んだ時代の背景を感じさせない。(石原慎太郎「またしても不毛」)

前回も思ったが、なんでこんなにビョーキの話ばかりなのか?まるで日本全体がビョーキみたい。(池澤夏樹「他ジャンルからの乱入」)

「現代における生きにくさ」を描く小説はもううんざりだ。そんなことは小説が表現しなくても新聞の社会欄やテレビのドキュメンタリー番組で「自明のこと」として誰もが毎日目にしている。(村上龍「選評」)

候補になった人たちも、よりによって村上龍にそんなこと言われたくないだろうけど、この人たちは中原昌也の「点滅……」を、何だと思って読んだのだろう。「ビョーキの」作家の「現代(の文壇―俺補)における生きにくさ」を描いただけの「ありきたり」で「芯」のない作品として読んだのだろうか。物語の向こう側にある何かを覗こうというつもりがなくて、なにが芥川賞か。それならもう、「文学」然としたその看板を下ろせばいいのに。

  • 「人声天語」連載40「昭和天皇の「発言」に私は失望した」

今回は、「大相撲の話題」の予定で、「そして実際、原稿の八割は書き上げていた」のに、「急遽、それを差し換え」てある。差し換えられた理由は、タイトルからも分かるように、日経新聞の「スクープ記事」だ。こういう「時代のゆらぎ」を受けている連載は、読んでいて面白い、と書くと、フォロワーみたいでアレだけど。
でも、「白露山露鵬の美しい兄弟愛」の話も読んでみたかった。