『本の雑誌 2006.6月号』

ジュンク堂書店池袋店にて529円で購入
米光一成「目鱗三千枚落下の強烈な一冊」(新刊めったくたガイド)
最初に小熊英二『日本という国』を取り上げている。僕はこの本が嫌いだ。まず、彼が、「なんで学校に行かなくちゃいけないのか」から始める理由が分からない。そして、そこで『学問のすすめ』を引くのは、「近代思想」の講座を持っている人間として、いかがなものか。たしかに、『学問のすすめ』の冒頭はそう始まっている、だけど、福沢の思想は、「全員が勉強をして「日本という国」の運命をになう地位に出世できる可能性があると自覚させる必要がある」(米光氏の「要約」から引用)というようなものではない。ここでの「「日本という国」の運命をになう地位」というのは支配階層の側を指すのであろうが、『文明論之概略』ではむしろ、支配階層ではない地位、つまり在野の立場の重要性を説いたのであって、そうであるからこそ福沢は(小熊氏の勤める)慶応義塾を開いたのではないか。すなわち、「立身出世」の物語を追い求めるのではなく(同じベクトルに向かうのではなく)、多様性に飛んだ・個別的な方向への努力である。
おそらく、そういう福沢の思想と結びついて始まった日本の近代が、(福沢の「脱亜論」よろしく)「侵略する国」となっていく、ということだろう(おそらく、って何だ)。しかし、福沢のすべての著作に、いや、主要な著作に目を通したであろう小熊氏なら、福沢の思想は(そして日本の戦前・戦後も)、そんなに短絡的なものではないことは分かっているはずだ。それなのに、別の側面をあえて切り捨てて論じているこの本が嫌いなのだ。そして、その本を「ひとつのクリアでクールな出発点となりえる」と評し(そりゃあクリアでしょう、色んなものをそぎ落としているんだから)、さらに「「朝まで生テレビ!」で、この本を元に議論してくんないかな」という米光氏は、「朝生」を何だと思ってみているんだろう、と余計な心配をせずにはいられない。
青木るえか「名セリフのお献立」
『ギャンブルレーサー』という漫画の最終回によせて、「いかにも「らしい」終わり方であった」と締めくくられている文章であるが、最終回の内容には微塵も触れられていない。書かれているのは『ギャンブルレーサー』の位置づけ、という程度だ。一体、何が「「らしい」終わり方」だったのだろう。

と、えらそうなことばかり書いているからといって、『本の雑誌』が嫌いなわけではない。今回の「坪内祐三の読書日記」は、とっても素晴らしい。と、俺がツボウチさんの連載を褒めたって、『どうせアナタは坪内シンパなんだろう』としか思われないかもしれない。だけど。いつもは、シブ過ぎて俺にはその面白さが分からない日があるのだけど、今回は、どの日も、シブくてポップだ。それから、青山南氏の連載も面白い。だけど、「ペイバーバック」じゃなくって、「ペイパーバック」じゃないの(そんなこと、どうでもいいんだけどね)。