『論座』1月号

朝日新聞社発行。駅前の本屋にて購入。
リニューアル、というか、デザインが変わって、誌面もちょっと変わり始めてから3号目。何だかんだケチをつけながらも、毎号買っていたのは、何とかして面白い雑誌にしてやろうという熱が感じられて、実際内容も「総合雑誌」的なものの芽くらいは見受けられていたので、期待していたのだけど。今月号はどうにもダメだ。
・U-40 30代の論客たち
ただ単に30代であるという以上には、ほとんど何もない特集。若い論客を特集するのであれば、そこに何かしら新しさがなければその企画の意味がないと思うのだけど、ちっとも新しさはない。或る意味、いまの日本の「論壇」だとか「知識人」の焼き直しという感じでもあるし、その問題点をも継承している。
特にそういう部分が強く感じられるのは、一番最初に載せてある渋谷氏の論文だ。いかにも社会学が専門の論客の文章、という感じである。それなりに分析の手際はよいのだろうけども、それ以上のものは、ない。

しかし、たとえば実際の日常会話では「勝ち組」という言葉で自分を描写することはまれであろう。ジョークのネタの域を出ていない場合も多い。このように考えると、生身の人間がこれをどこまで内面化しているかという点では、かなり留保が必要であろう。(p.55)

本人も言っているこの留保を乗り越えるほどのものは、ない。もちろん、社会だとか時代だとかを、大きな枠組でとらえるということは、厳密で正確な論理だけでは不可能だろうということは認めるのだけど、「勝ち組」「負け組」なんてことばを真面目に扱うというのは、どうだろう。誰がそんなことばを本気で使っているものか、と思うのは、俺の感性が鈍いということなんだろうか。
でもやっぱり、「勝ち組」が「俺、勝ち組だぜ!」なんて言っているとも思えないし、そうやって二元化し「負け組」を「敵」とすることで「後ろめたさをチャラ」にしているだなんて、到底思えない。「勝ち組」「負け組」ということばが本気で使われていたとしても、そのことが孕む問題というのは、「敵」をつくり出すポピュリズムなどではなく、そのあいだでの交流のなさというか、意識のなさじゃないのかな。「勝ち組」は「負け組」への意識がないし、「負け組」の「勝ち組」への意識もない、ということが。
・「社会学」の可能性
つまらない。もう、メンツからしてつまらない。もう関係が出来上がっている人たちの対談を『論座』でやる必要が、どこにあるんだろう。これを読んで、「社会学」に可能性を感じられる人は一体どの程度いるんだろうか。この対談の雰囲気を打ち破れる論客を出すことができなければ、U-40も何もあったもんじゃない。
・その他
全体的にも、あまりバランスが良くなかった。政治っぽい文章が多い。俺はかまわないのだけど、俺はてっきり、そういうガチガチな雑誌ではなくって、メインでかちっとした硬派な企画をやりつつも、サブでもっと別の企画をやることで、雑多な雑誌を目指しているのかと思っていたのだけど。勘違いだったのかな。
・追記
散々文句を言っているが、細谷雄一氏の文章は良かった。